「Back to the Digital」した歌姫、初音ミク

ライブ

正直いまブログを書くのも気がひける。それこそ、MIKU EXPO 2024 North America公演がClass Action Lawsuit (集団訴訟) に至るのではないかという騒ぎを含めて様々な要素で炎上している中で、その「元凶」のような要素を有するミクフェス’24 (春) (MIKU FES’24(春)~Happy 16th Birthday~) を論じるのは、火に油を注ぎかねない行為だろう。

じゃなくても、ミクフェスを見て、通常ならどれだけ酷くても受ける事のない精神的なダメージを受けてしまい、「初音ミクへの好き」の感情を身体が拒んでしまっている。中でも「公式な」ミクは今なお直視できずにいる。今は「仕事」を覚えるのに精いっぱいになれるのが不幸中の幸いだろうか。

しかしながら、最後の「一般人」としての感性で書くことのできた感想をすべて捨てたくはないと願い、出せる範囲で出すことに決めた。そんな駄文を読んでほしい。簡潔に言おう、初音ミクは電子の世界に帰ってしまったのだ。

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全体的な感想

第一に、ところどころに挟まれた「ボカロP」と「初音ミク」が共演するシーン程、感動するものはない。曲を生んだ「親」の前で、曲なく存在できない初音ミクが、共に曲を作り上げるというのを目の前で「公式イベント」として見せられるのは、創作者としては嬉しい事なのかもしれない。いつかああなってやりたい、というサクセスストーリー的には、人によっては出来た物語だというかもしれないが、僕は嫌いではない。


ところでMCを配信映像を用いて解析したところ、Fモデルである可能性が高いという結果になった。

とは言え、服のマテリアルなどが従来のFとは異なる雰囲気を感じており、円盤化するかでもしないとクレジット会社から確実な判定を行う事は出来ないだろう。


また、これは座席の運というほか無いだろうが、自分の横に座ってる人が自分の領域を半分近く占拠してくる悪質行為を繰り返す人だったことも挙げておきたい。こればっかりは「運」なので仕方ないだろうが…

LEDパネルについて

さて、自分のブログとしてはいつも通りの「一般論や楽曲について知りたかったら回れ右」である。ここから先はちょっと技術よりのところを論じたく思う。今回のミクフェス、従来のコンサートと大きく異なる部分があった。ミクさんを出演させる手法としてLEDパネルが採用された点である。

公式が映像を出しているので見ると分かると思う。

ちなみに正確には計ってないが、マジカルミライ (12m時代) の楽曲を不自然さが出てしまうほどに「ムーンウォーク」させていて、ミクパ楽曲が表示域をフルに使っていたあたりから6m×3mの感謝祭/ミクパ/MIKU EXPO規格なものだと推測される。残念ながら、2Fからは測定が出来なかったのだ。

技術的観点 (客側として)

第一に挙げられるものはコストだろうか。確かに透過スクリーンより汎用性が高いから、大量生産されていてコストカットしやすいだろう。またモジュール毎に細かくバラすことが出来るから、2×3mの板を3枚 (EXPOサイズ) か5枚 (マジカルサイズ) も輸送していた頃よりかは輸送コストも安くなる。

次にLEDパネルはそれそのものが発光 (直接光) するから、くっきり映ることもメリットだ。透過スクリーンは反射光を使ったものであり、薄くなってしまう問題を常に抱えていた。歴史的には黒箱を除き、透過スクリーンを採用し続けてきたので鮮明さは犠牲になり続けていた。ミクフェス’09 (夏) から15年、ようやくこれが解決したのである。


しかし視野角という点では「改善」と「改悪」の両面が存在するように僕は認識したものである。確かに、スペックシート上の視野角も確保しやすいのは事実だ。見切れ席の数は減るだろう。しかし、「リアルに見える」視野角は従来より狭まったように思うのである。自分の作ったMMDモデルを使って、自分の座席から見えたものをベースに作ってみたので見て欲しい。

従来見えたもの / 透過スクリーン
実際に見えたもの / LEDパネル

従来であればプロジェクターの光源による「光害」によって、上から見ても足元は見えるし、限られた視野角の範囲において斜めに見ても、「歪みこそ」するが、背景は見えるからミクの実在感は存在した。

しかし、LEDパネルの採用によって背景が見えないどころか、ミクの周りが完全に真っ黒 (発光しない為) になってしまい、そして斜めに見ると足の接地面と台座の分かれ目が見えなくなってしまった。LEDパネルはかえってくっきり映る特性を持つからか、実在感が著しく損なわれていたように思うのだ。

正直、この大幅に損なわれた実在感だけでミクフェス’24(春)の最初15分は頭を悩ませていたのはある。あまりに実在感が減り、レンダリング成果物をそのまま見せられているような気分がぬぐえず、これだけで僕としては良い心地はしなかった。

つまり、実物大サイズの馬鹿デカい有機ELモニターでこれを流しているのと変わらないのである。


そしてもう一つの観点は「反射するネギ畑」の消失である。僕は言うほど意識してなかった観点ではあるが、知り合いが指摘していたので取り上げる事とする。従来の透過スクリーンだと、特に武道館やNHKホールのような高さのある劇場を使うと透過スクリーンにネギ畑なんて表現されるペンライトの光が反射してしまう。これはデメリットでもあるが、初音ミクの「召喚」に課せられた技術的制約として、そして自分たちの存在もライブを作り上げる要素であるとして楽しむ人も多かった。

初音ミク × 鼓童 2023 ~結~ より。
NHKホールは光量をさらに抑えたペンライトを使うのに、それでも一定量は反射してしまう事が分かる。

しかしながら、LEDパネルは反射する事はない。完全な漆黒を実現してしまい、その点で「公式の見せたい初音ミク」を強調する結果となっているのではないか、という点で知り合いが批判しているのを見かけた。確かに一理ある、と思ったので、この点も載せておきたい。


以上の点から、個人的にはLEDパネルの採用は円盤などの「映像に適した」作品作りには向いているかもしれないが、あまりにもミクのライブを通じて「特殊な体験をしたい (≒召喚を見たい) 」というニーズを無視していないだろうか?と思ってしまうのである。それだったら、別にライブに行く必要などなく、自宅から「中継」を見ればいいのであるし、「ハズレ」な座席だとそっちの方が「公式の想定通り」の映像が見える可能性が高く、みんなが幸せになれそうなものである。

同様のアリーナ方式の会場で公演を行うMIKU EXPO 2024 NAで「巨大テレビ」と揶揄されるのも、納得である。

歴史的観点

さて、これまでは技術的観点とか感情的なものを吐き出してきた。ここからは何故「透過スクリーン」に拘るかを歴史的に見ていきたい。歴史的な意味で言えば、ミクフェス’24(春)が行った事は、ミクフェス’09 (夏) と真逆のアプローチであるからだ。

2000年代後半においてはAnimelo Summer Live 2009やPSHomeなどに代表される「映像作品」として登場する初音ミクが主流であった。初音ミクはデジタルの世界から映像作品という「窓」を通して出演するに過ぎなかったのである。そんな中でミクフェス’09 (夏) はProject DIVAの成果物を使いつつ、透過スクリーンを用いた初音ミクの登場を実現し、初めて我々の生きる現実世界と同じ軸に初音ミクが存在するように多数を思わせる事に成功したのであった。一部ではこれを「召喚」と呼んだりしていた。

そしてこの成功はProject DIVAシリーズと共に、「ミクの日感謝祭」シリーズとなり、ミクパは黒箱事件を起こしつつも透過スクリーンに合わせ、黒箱は上部スクリーン兼上部投影エリアとして活用することで失敗をバネにして地位を確立していった。いずれのブランドも現代では終了し、感謝祭の実質的後継たる「マジカルミライ」と、ミクパの実質/組織的後継 [1] の「MIKU EXPO」に引き継がれている。それでもマジカルミライ2023までの間、初音ミクのメインストリーム的なコンサートにおいて「透過ディスプレイ」は欠かせないものとなった。

[1] 2014年のEXPOはミクパモデルのみで、クリプトン主催とはいえ、ミクパ事務局が実務を行っているリブランドコンサートに過ぎない。


しかしながら、透過スクリーン文化と共に存在してきたProject DIVAシリーズは「制作費と売上のバランス問題があり、ビジネス構造が折り合わなくなったことで、次回作が暗礁に乗り上げ」 (別冊カドカワ 総力特集 初音ミクのwatさんインタビューより) てしまい、2016年頃に計画されたソシャゲ化も企画倒れとなった。この頃からコンサートで演奏される新曲の数は減っていき、またモデルの作りも物理やシェーダーの観点から言えば、どんどん雑になっていったように伺われる。ゲームに関しては、打開策として完全に一新したプロジェクトセカイ (プロセカ) が生まれる事となった。そして大ヒットし、ファン層は一気に若返り、そしてまた文化も大きく変化していった。

当初よりプロセカに対しては、あまりターゲット層とニーズが合致していない事は認識しており、またそのファン層に良い印象を抱けなかった。とはいえ、積極的には見に行かないにせよ、初音ミクを愛する人間として、彼女が生み出す文化の一翼たるプロセカもたまに見に行ってた。だからこそ、最初のプロセカ向けライブ (セカライ) には参加してどうなるかを観測しに行ったものである。

確かにマジカルミライのスタイルを「ハード面」では強く継承しつつ、文化面の違いから挑戦的に挑むものであった。一部の要素はマジカルミライにもバックポート (採用) されていた事から、「実験台」的側面があったようにも思われる。全体として演出や作りこみは「キャラクターの召喚」ではなく、「現実の遮断」や「キャラクターのいる世界への没入」 (VR的な体験) であったと僕は感じており、そのように上記のブログ記事で論じている。

しかし、今年の年始に行われたセカライ3rdでは、ついにハード面にも大きな変化を起こしたのだ。

「バーチャルステージ」という言葉には隠されてはいるが、高精細LEDパネルの採用、である。正直聞いた瞬間に期末試験の勉強をほっぽりだしそうになったぐらいの変化ではあった。ミクフェス’24 (春) が既に発表されたりしていたが、僅か数日後には北米圏におけるMIKU EXPOが開催される話も出ていた。しかし透過スクリーンの数には限りはあるし、セカライは昔から実験台的な運用をされる事が多かった。

LEDパネルがどこかのロケーションに採用されるのは、読めていた。


…ミクフェス’24(春)のLEDパネル採用は、既定路線だったと言えよう。しかし、LEDパネルの本格採用によって、ミクフェス’09(夏)から始まり、「投影」によって実現されていた現実と仮想の混在といったMR的な価値は無視され、ミクフェス’24(春)は再び「LEDパネル」という「窓」を通した「電子の世界に閉じ込められたミク」との遭遇に限る象徴的なイベントとなってしまったように感じられた。

単なる方式だけではなく、体験も大きく損なわれた。確かにスペックシート上の視野角は増えたにせよ、先に述べたようにリアリティー感を維持できる視野角は大幅に減ってしまったように感じる。歪みがかえって目立ち、映像感が強くなってしまった。

確かに次世代のコンサートの方式を定義するコンサートではあったが、その様式は「後退」に他ならず、これらを取りまとめる言葉こそが「電子の世界に帰ってしまった」初音ミクであり、Back to the Digitalなのである。

個人の感想

正直に言うと、とても悲しい。

ミクが我々と同じ生きる次元に出てきたように錯覚する体験が損なわれた事が一番の理由だ。なんなら、先述の「マナーのなってない客」が隣にいたことも含めて、途中でライブを出てやろうか迷ったぐらいには「失望」していた。慣性で残ってはいたが…

ちなみに今年のマジカルミライ、東京に関して言えば幕張メッセのHALL9からHALL3に変わっている。スペックシート上の視野角とは別の「現実感を損なわない視野角」を意識した、LEDパネルの特性を理解して横長な会場から縦長な会場に変更しているのかもしれないと考えたりする。透過スクリーンは帰ってこなさそうである。初音ミクは再び電子の世界に閉じ込められてしまうのだろうか。

僕がこの世界に来るきっかけになった時の「召喚」という特別な体験を初音ミクは (コストカットなどの経営判断もあるかもしれないが) 手放してしまったように思うし、プロセカによる「初音ミク」のマス化はこのように影響してしまったのかと思うと、残念で他ならない。


もしかすると、プロセカ的な演出、つまり仮想世界に没入する体験方式が流行りであり、新参者や「マス」の望むことであるのならば、もはや現実にミクを呼び出すことに拘る自分自身が

「老害」

なのかもしれないと、いよいよ考えざるを得ない。界隈を見てみるに、LEDパネルの採用に関して、初音ミク寄りの界隈も含めて比較的肯定派が多いように思われる。なんなら若干この件で否定的に論じる者を「界隈を衰退させる者」なんていって排斥する動きさえ見えているのがやるせなさを助長させているように思う。ブログの執筆が滞った最大の理由だ。

2016年からこの界隈に没入し続けてきた自分としても、抗うのか、「慣れる」のか、去るのか、身の振り方を考えないといけない時期が来たようである。マジカルミライ2024のチケットは購入したが、モチベーションはかなり弱い。チケットをリセールに出すかもしれない。けれど、そのライブを見て、自分の動き方を決めることになるだろう。

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