『その涙を優しく、思い出に変えてください』

個人的なあれこれ

今日ようやく言えることがある。上智大学を無事に卒業する事が出来た。めでたく学士 (法学) らしい。

要件の127単位中、取得単位数は127単位ちょうどなので、「ギリギリ」卒業できたと言うべきか。つまり最後まで留年 (上智大学には原級留置制度、いわゆる留年は無く、4年次の最後の単位数の帳尻が合わないと「在学継続」の扱いとなる) するか分からないまま、両親には4年分の学費しか準備してないと言われ、というか成績票も送付されない状態にあり (保証人が国外住所だと送付されないらしい)、内定先にもどうなるか分からないという迷惑をかけまくって、チキチキレースをしてたのだけれど、「人生最大の賭け」に勝ったのである。

2024年1月時点の表示。
一個でも落とした瞬間、留年が確定するところだった。
秋学期の成績を含んだ表示。無事に不足単位数が0になった。

人生ゲームじゃあるまいしって思われるかもしれないけれど、やらかした時には「相続」の対象になるようなことをせねばならないのではないか、と抱え込んでいたものである。これ以上の事は表現の仕方は (広告をはがされるので) なかろう


言い訳がましいが、言ってしまおう。コロナで1年生の時に本来受けるオリエンテーションが全てなくなり、履修に関して全くと言っていいほど支援を受けられず、2年生の時に所属していた (なんなら立ち上げから積極的に関与した) 「好きを突き詰めた」サークル内で発生したインシデントと、当時名古屋在住だった個人的な人付き合い (これを恋愛感情というのだろう) での盛大な破局と爆散が重なった結果、2年秋までにロクに単位を取得できなかったのだ。

学内の平均数と見ると、明らかに遅れてることが分かる
また、20秋/21秋の単位取得数がひどい事になってるのも分かる

あまりのメンタルクソ雑魚具合に呆れられても仕方がない。実際親には「メンタル雑魚過ぎやろ」って怒られたり… というか現代的価値観で言えば「貶されたり」したが。いずれにせよ、親とは分かり合える気は到底しないし、それでも3年生の段階で相当の危機感を覚えて挽回すべく頑張った結果が、これである。


きっとこれを見て驚いているのは同じゼミ生だろうと思う。実は大学のゼミでは取得単位数につき、余裕なように見せながら、内心では死にそうな感情を押し殺すというアホな事をしていたわけだが、僕のプライドが単位取得数がギリギリであるという事を認める事を許さなかったのである。

ゼミ内のシーン

許せ、亀と葉っぱ、なんて思いながら、今こうして実態を明かすわけだ。(分からないなら気にしなくてよい)


当然、僕は4月から社会人になるわけで、内定先も存在する。僕のアカデミアはここで終わり (はず) 、モラトリアムが終わって社会参画をする身になるわけだ。これについて、僕はすごく楽しみにしている。

一応、都内で働くということになるらしい。

流石に本ブログに内定先に関して、明示の許可をもらっていない手前、書くわけにはいかない (最も、本ブログの存在は様々な兼ね合いもあって通知しており、おおよそ承認を受けるだろうと回答は貰っている) 。もっとも、知ってる人は知ってるはずだが、知らない方に分かりやすくいうと、僕を拾ってくれた会社は、自分の就職軸と適合し、また僕の「好きを突き詰めた」結果であって、それを深く理解してくれる会社のシステムを有するところである。(その上で卒業がギリギリでも内定取り消しをしなかった会社だ)


いずれにせよ4月からは社会人なわけだが、今回のタイトルの元ネタ「letter song」のように幸せな結末を迎えられたからこそ10年前を思い返して思った事がある。あの時の僕は、将来に期待なんて持てなかったのだった。中学受験した学校を僅か1年で辞めてしまい、別の私学 (プロテスタントな某校) に転校したばかりだった。その背景やその時の経験は今でも思い出したくない。

けれどそれが無ければアメリカに引っ越す事もなければ、上智大学に行く事もなかっただろう。結果論的なところはあるかもしれないが、「泣いた僕」がいたからこそ、今の僕はいる。タイを欠いた僕と同じように、「死ぬ寸前まで追い込まれなかった」ら、きっと今の立場にはいなかっただろう。

だから10年前の自分に返信というものが存在するならば、声を掛けられるならば、こう声を掛けてやりたいと思う。きっとその時の僕には何を言っても通じない気もしなくはないが、きっと最後には気がつけると思うから。

そら
そら

君の苦しみと思いやりがあったから、僕はそれをバネにして、幸せを見つけられたよ。

2024年3月16日
そら

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